花を摘んだ青年
その国では、花を摘むことが大罪でした。
青年には弟がいました。弟は病のために外に出ることも叶いません。青年は外に出かけ、さまざまな景色をみては弟に風景の話をし、落とし物を拾っては、お土産にと持ち帰りました。小さな部屋が、弟の世界のすべてでした。
「今日は湖が金色で、鴨がぷかぷか浮かんでいたよ」
「空が白かった、その先に、水色と薄いオレンジの混ざる場所があったよ。きっともうすぐ冬が終わる」
「花が咲いたよ」
「花?」
弟は花を知りません。花を摘むことが大罪であるこの国です、花をお土産にすることができませんから、弟が花を知ることは無いのです。
「瑞々しく伸びた管の先に、ピンクや、白や、きいろ、赤、頼りなく柔らかな羽をつけるよ。花は生きる方法しか知らないような生き物で、ただそれだけなんだ。美しくて、恐ろしいよ。そしてね、この国では」
「花……すごいや、見てみたい。僕は花を見ることができたから、きっとこの小さな部屋の世界で十分に生きていけるよ」
青年は黙ってしまいました。弟の表情に希望が宿るのを見たのは、ほんとうに初めてのことでした。
チョキン
白くぼんやりとしたのどかな午後に、鈍く冷たい音が響きました。
「なんて軽いんだろう」
花を持つ手加減を知らない青年は、瑞々しく伸びた頼りない管を潰れないようにそっと指で包みました。草木のにおいがします。
「きっと私はすべてを失う」
断ち切られた管の鋭利な切れ口から、水滴が滴ります。
「私は許されないことをした。けれども、許されることがそんなに大切なことだろうか。私には、もっともっと大切なことがある。どうか、私たちだけに世界をください」
青年はとても大切なものを抱きしめるように一輪の花を抱え、駆け出しました。
「これが花?」
弟は不思議そうに花を見つめ、そっと触れました。
「こんなに弱そう、なのに、とてつもなく強い。美しいね、ありがとう。ほんとうに、うれしい」
弟はずっとずっと花を眺めました。うれしいという感情が身体中をとくとくと流れることを感じました。満ち足りることを知りました。そしてその夜、青年に抱えられた腕の中でそっと死にました。ほんとうにあった二人だけの世界が、そっと消えました。
「青年が花を摘んだ」
その話は人から人へと風邪のように移り、瞬く間に国中へ広がりました。
「青年は花を摘みました。たった一輪の花は種子をとばし、永遠に続きゆくものです。それを、たった一人の私欲のために断ち切りました。連れられるように、幼い命も消えました。これは決して許されないことです。」
識者は透き通る豊かな抑揚で、人々に青年の悪を説きました。
「お前は花を摘んだ、極悪の人間だ」
「お前のせいで弟は死んだ。この、人でなしめ」
人々は、花を摘んだ見ず知らずの青年を見つけ出し、次々に罵声を浴びせました。まるで、この世界のすべてを知っているかのようでした。
「こんな人間が生きているだなんて、恐ろしくて仕方がない」
「わたしたちは、この最低な人間に罰を与えなければならない」
ある人がひとり、青年に石を投げました。人に向かって石を投げることは初めてでしたから、手が震え、うまく当てることはできませんでした。けれども、この青年は出来損ないの人間だ、私達とは別の物なのだ。そう考えると、石を握る手先はとても器用に石を投げることができました。それに続くように、人々は石を手に強く握ると、次々と青年に投げつけました。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
青年は身を屈め、歯を食い縛り耐えました。
「これじゃあ、足りないよね」
一人がそう呟くと、青年を後ろから蹴り飛ばしました。
「ああ足りない」
人々は満足が欲しくて、ひたすらに青年を蹴ったり、殴ったりしました。
(わたしはきっとこのまま死んでしまう。そうしたら、私たちの世界は消えてしまう。ほんとうにあったのに、ほんとうに……)
いよいよ一人が瓶を取り出し、思い切り頭を殴りました。青年の身体には割れたガラスが突き刺さり、血が流れます。青年は倒れ込みました。
「見たか、この悪者を倒したぞ」
「こんな人間にも、まさか同じ色の血が流れているだなんて。相応しくない。すべて流しだしてしまいましょ」
ある者がそう叫ぶと、人々は刃物で青年を突き刺しました。何度も刺しては、踏みにじりました。青年の息がとっくに絶えていることなど、誰も気が付きませんでした。やがてそこにはぼろぼろに撒き散った残酷な破片だけがありました。
青年は跡形もなくなりました。
人々は自らの正義を讃え、手を取り合い、心の底からよろこびました。
その国には、もう悪者なんていません。人々はほほえましく、安らかに慎ましく暮らしました。
しばらくの時が経ったころ、一匹のオオカミがふらふらと現れました。オオカミは花を見つけると、むしゃり、と食べました。
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