ステイトメント
湖面が白く金色に輝く時間がある。昼の美しい水色の中に、ぽきん、と折れそうな月が光る。どこまでも広がる草原に吹かれ、子羊たちが駆け回る。誰も知らない森の奥に、誰も知らない生き物が静かに座っている。小船に乗った小さなキツネが、今日も海の何処かで旅をしている。ここは、どんなところ。これは「わたし」という地上に広がる風景である。人間の中には風景がある。持って百年そこそこの風景だ。
ここは、どんなところ。誰かが色に名前を付けて、誰かが星の移ろいに区切りを付けた。誰かが意味を作り、誰かが地上に線を引いた。これは、こう。ここは、こう。この気持ちは、こう。ただ漠然とある世界に、意味を内包する輪郭が創造された。わたしはこのことにより、世界は少しの意味と、そうでない殆どのものに分かれたと思っている。そうでないものは無意味であり無価値だ。無意味であり無価値なものはあまり知覚されず、見つかっても、不要なものだと錯覚される。不要なものは、何故か「在ってはならない」。そして、それぞれの人間の中にある風景が世界であることを忘れてしまったみたいだ。けれどもわたしは、どこまでも豊かなそれらを「詩の領域」と呼ぶ。
人間は、どんな生き物。地上にぽつんと建物がある。建物が、いくつもある。人間はそれぞれの建物にそれがどのような空間であるのか意味を与え、おおよそ、その意味の通りに振る舞う。つまり、家(巣)では暮らし、学校では学び、店では商いをし、職場では労働をする。教室と名付けられた場で先生という役割の人間が突然ステーキを焼き始めることはしない。ショッピングモールの中で自動車を運転する人間はいない。人間は空間に意味を内包させる壁や屋根を作り、作られた場は人間をつくる。人間は家、職場、学校、店......と、意味を往き来する。意味を与えられた場で何かを行うということ、多くのことがそれに収まる(これは何故なのだろう、身体が一つの空間……つまり、生命はどうしても空間であることしか知らないからなのだろうか)。そして、そうではない「世界の殆どのこと」は人間の主な事としてみなされていないように思う。つまり、絵を描くこと、紙を破ること、石を拾うことは意味から溢れており、人間の主な事ではない。湖面が白く金色に輝くことは、学校から家に帰る途中に少しだけ見た景色であり、今日は湖面を見た日ではなく学校に行った日であった。16時の春の空が淡く湖に溶けること、草原に吹かれること、早朝の排気ガスがとても美しく光ること、月明かりが午前3時の窓辺に漏れること、器の輪郭をぼんやりと眺めること……ほとんどのことは副次的なこととして取り零されている。「詩の領域」とは、そのような、世界の殆どのことである。世界のほとんどのことには意味が無い。意味のある僅かな領域を奪い合うこと、それが全てだと錯覚し、意味の領域の中だけで生きようと努力し、より「意味があること」に価値をつくってしまうこと、価値があることに重きを置いてしまうこと、意味や結論のある勝つための言語ばかりが人間の言葉として用いられ、詩はそのようなものの外側にあること……。けれども元々、意味なんて無かった。私たちは元々、意味の無い生き物だった。世界は有り余っている。「あなたの祈り方でこの世のことを教えて」── わたしは有り余っているこの世界で、人々が何を感じ、何を考え、どう生きるのかが見たい。私たちは元々、どんな生き物だったのか。この世界は元々、どんなだったのか。
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